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「世界」は劇場に収まるか


「世界」は劇場に収まるか。

地下二階の寒々しい演劇練習室に、劇の「世界」は収まるか。
あるいは観客の「世界」は?
あるいは俳優の「世界」は?
日本とアメリカとその他の色んな国を寄せ集めたもの、という意味での「世界」は?

国営劇場の大ホールになら収まるだろうか。
人が千人も入るのであれば、劇の「世界」くらい容易に収まるような気もする。

こんな事を文字にして眺めると、どうしてもアホタレが小難しい事をこねくり回すさまを見せられた感がある。


劇場は狭い。

あらゆる「世界」に比べて余りにも狭い。
舞台に立っている俳優は「世界中の人」の顔を知らない。
では「劇場中の人」の顔は?

俳優は、自分達を見ている観客を、「お客様方」を見ている。
もちろん全員の顔を、じろじろと見ている。

むしろ、劇場で主に見られているのは観客の方だ。

劇場に持ち込まれる前のもの、「演劇」になる前の劇をこねこねこねている間中、劇団は観客をつぶさに観察している。
言葉に、からだに、劇場の空間を分け合う全てのものに、観客は何を投げかけるか。劇団は観客の反応を、というより行動を幾度もシミュレーションする。
「仮想・観客」相手の実験が繰り返される中で、ある時素描された「観客」の像はより鮮明に、より詳細になるよう手直しされていく。

そうした試行錯誤をはらんだ劇が「演劇」に作り変えられていく中で、「仮想・観客」が観客に変わる時、両者を舞台上にいる者達が比較し対照し、産まれつつある「演劇」の正体を見極めようとする時、「仮想・観客」に注がれた視線は、劇場に押し込められた時間・空間と同じだけの密度をもって、そこにいる観客に注ぎ直される。


だからこそ、劇場は狭い。

あちらを見ればさっき見た人、こちらを見れば舞台上で隣に立っている人がさっき見ていた人、ということがありふれた、「狭い世界」がそこにある。

こう考えると、劇場の狭さはそこに「世界」が収まる可能性と矛盾しない。

そして、劇場に収められた「狭い世界」は、劇場の中で容易に産まれ変わる。

言葉一つで、観客と俳優のからだから、「世界」が「産み直され」る。
世界大の質量をもった重たい空間は軽々と転回し、見る間に鮮やかな再誕を繰り返す。


演劇は、まだ始まっていない。


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劇団綺畸2016年度新人公演

『無題、あるいは歪曲するガラスケースの寓意。』

作 中石海    演出 野口瑞貴

3/18(土) 19:00

19(日) 14:00/19:00

駒場小空間

全席自由席

予約不要・カンパ制

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