『夜と霧』× 「わたし」=???


高校生が「こども」であるかどうかは物議を醸すところではあるが、実年齢的にも精神年齢的にも未だ「おとな」の自覚のない私としては、その対義語としての「こども」に現在でも当てはまると曲解してこの本を選ぶ。

 V.E.フランクル『夜と霧』

先にも触れたが、私はこの本を高校時代から愛玩している。
愛読ではなく、愛玩である。
その理由は後に述べる。

何の因果か、つい先程このブログの読者になったあなた方の中には『夜と霧』をご存知でない方もいらっしゃると思うので、少し説明しておく。

著者のフランクルユダヤ系のオーストリア人であり、精神科医・心理学者としてウィーンの精神病院で診察・研究を行っていた。
が、時は第二次世界大戦ナチスにより強制収容所に送還された。
極限状況下にあっても、彼は原稿を上着の裏地に縫い付けるなど強固な研究意欲を持ち続け、ついに生き残った。
『夜と霧』は、そんなフランクルが、収容所の惨状、被収容者の生き様を「内側から見た」生身の体験記である。

彼の思想の中心は、「人生の意味」である。
ここに、特徴的な一節を引く。


ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。私たちが生きることからなにを期待することではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。(中略)生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。(中略)生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
(『夜と霧 新版』V.E.フランクル池田香代子みすず書房)


人の存在意義なるものを、その存在如何さえ疑っていた私は、上記のような彼の思想を直ちに受け容れることができた。
受け容れるだけでなく、「自らの思想にどう昇華していけるだろうか」と今でも頭の中で転がし続けている。
これが、私にとっての『夜と霧』が愛玩本たる所以である。

フランクルにとっての人生の意味の具体性・流動性は、我々に希望と絶望を同時に与える。
「人生の意味とは何か、答えよ」という壮大な問いから解放され、イマという小さなクイズを解き続けた先に待つのは楽園か、はたまた奈落か。
そこまで大仰な話ではないにしろ、己の人生からの命令に応え続けることの責務と残酷さは、人類共通のものではなかろうか。

私には、どんな人生を描けるだろうか。
私には、どんな物語を作れるだろうか。
私たちには、どんな作品を生み出せるだろうか。

皆このような心持ちで、公演を打ちたいものである。

 

長文・駄文失礼致しました。

制作1年 あっちゃん こと、川上敦也

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劇団綺畸2016年度新人公演

『無題、あるいは歪曲するガラスケースの寓意。』

作 中石海    演出 野口瑞貴

3/18(土) 19:00

19(日) 14:00/19:00

駒場小空間

全席自由席

予約不要・カンパ制

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