終演しました。

とうとう新人公演がおわりました。
長かったような短かったような。
個人的には、ものすごい後悔があるわけでもなく、ものすごい達成感があるわけでもなく、やり残したこととやり切ったことが半分ずつ、どっちもちょうどよく自分の中に残っている、そんな感じです。
これがきっかけで驕ることも卑下することもなく、わりと今まで通りの感じで演劇に関わっていくんだろうけど、ちゃんと今回のことも糧になっている、という、それくらいのちょうどいい塩梅なんじゃないかと思っています。

この劇をつくってる間は、ほんと不満とストレスだらけでした。
自分のやりたいことが全然できてない、自分がやりたかったことはこんなことじゃない、とばかり思ってました。
でも実際できあがったものを見てみたら、全然そんなことなかった。
そりゃ、もっとこうしたかった、って細かいポイントはたくさんあったんだけど、ちゃんと自分のつくりたかったものが形になっていた。
初日前作業のとき、舞台の先輩に、「この舞台好き?」と聞かれて、「僕の好きなものをつくったので好きです」と率直に言えたんですよね。

で、今までのことを振り返ると、僕のつくりたかったものを形にする上で、僕以外のいろんな人の力を借りていることにも気づくわけです。
床に光沢を出すとか、舞台を3つのエリアに分けるとかは演出の意見だったし、ガラスケースを模した吊りものの素材はもうひとりの舞台屋の提案だったし。

舞台以外でもそうです。
引退すると言い張ってる某舞台4年に「こんな照明当ててくれる人がいるなら、もう1回舞台美術やってみたくなる」と言わせしめた演出と照明。
ただでさえめんどくさい舞台構造とリクエストに、たったひとりで応えてくれた音響。
ファッションのことを何も知らない作のイメージをここまでしっかり形にしてくれた衣裳。
通し4以降に大量に小道具を追加するという無茶振りに応えてくれた小道具。
作と演出のバラバラな意見を聞きながらプランを切ってくれた宣美。
めちゃくちゃ当制しづらい舞台で、マチネでは爆発までした中で、公演を回してくれた制作。
当て書きしないどころか、役者の人数すら考えずに書かれた脚本に食らいついてくれた役者。

なにより演出と舞台監督です。

もう一度この演出とペアで作演をやりたい、なんて素直には思えないです正直。
「君たちのペアもう1回見てみたいよ」と先輩に言われたとき、複雑な気分だったし。
でも、この人がいなければこの劇はできなかった、というのは、認めないわけにはいかない。
今振り返ってみて、ひとりで作演やれたとは到底思えない。

それから舞台監督。
彼女がいなければ僕は作も舞美もできてない。
あまりにも長い時間を共に過ごす中で、お互いに愚痴も数えきれないほど言い合ったんですが、彼女の愚痴を聞きながら、今回の公演が彼女にとって楽しいものになればいいなあと、思いはしたけど言えなかったりして。
彼女にとって楽しかったのかどうか、これから聞く機会はいくらでもあるはずだから、そのうち聞くつもりではいるんですが。
今回の公演で一番迷惑かけたのは彼女で、その結果少なからず愛想つかされたみたいなんですけど、だからこそあえて、謝罪ではなく感謝を。
ありがとう。

人に直接感謝を伝えるのが苦手です。
なので、このブログどうせ内部しか読んでないじゃんと割り切って、この場で言わせてもらいました。
この代と打つ今後の公演が心から楽しみです。

 

作・中石

 

 

 


現実と物語の違いって何でしょう?
ここで言う現実や物語とは、私達が一般的に考える所の「現実」と「物語」です。
僕が考えた1つの結論としては、それは「語り手が存在するか否か」でした。
例えば、催眠術にかかった人を私達は好奇の目で見る。
それは、本来自由であるはずの人が突如何者かの操り人形となる瞬間を目撃した驚きなのだろうと思います。

お客様には、ラストの台詞に一体何を感じて頂けたのでしょうか?
ある種の暴力性と共に、精密に作品を作り上げてきたつもりです。
もし、あの一瞬に何かを感じて頂けたのなら。

劇団綺畸2016年度新人公演
『無題、あるいは歪曲するガラスケースの寓意。』
終演後にまで、ブログを読んでいただくなんて、この上ない喜びです。
改めまして、ご来場・ご協力、ありがとうございました。

演出・野口瑞貴

嫌なやつ


「将来はなにになりたいの?」という、大人が子どもに聞くあの質問。
あの質問に対して、なんとなく空気を読んで答えてしまう、嫌な子どもだった。
深いことは考えずに好きに将来を想像すればいいものを、将来というものの途方もなさへの遠慮から、それがなんとなくできなくて、質問した大人がどんな答えを期待してるかだけは想像してしまう、そういう子どもだった。
質問されるたび、自分がなにになりたいと思ってるのかはわからないままに、とりあえず何か答えなきゃいけない空気を感じ取って、数学者とか物理学者とか小説家とか、その時々で答えを変えていた。

何年か経って、僕はさらに嫌なやつになった。 空気を読んで質問に答えることの無意味さを感じてしまって、「将来の夢は?」という質問に、「未定」と答えるようになった。
さらに何年か経って。
将来のことなんてわからないのだから、その時その時でやりたいこと、意味のあることを選んでいれば、いずれ将来に辿り着いたときに後悔はないんじゃないかと思うようになった。
そう思えるようになったのは、20年間なんやかんや自分のやりたいようにやってきたけれど、今までの自分にも今の自分にも後悔がないから。
依然として将来の夢は未定のまま、けれどほんの少しだけ前向きになって、ほんの少しだけ嫌なやつじゃなくなった。
ほんとにほんの少しだけど。

なぜ演劇を始めたのかと聞かれたら、演劇をやりたかったから。
なぜ綺畸に入ったのかと聞かれたら、綺畸に入りたかったから。
将来どう役に立つかなんて考えず、その瞬間に意味のあると思えたことを、その瞬間にやりたいと思ったことを、選んだ。

いまのところ後悔はないです。
けれど、この公演が終わったときにも後悔がないかどうかはわからない。
これで失敗しても後悔はない、なんて言うには多過ぎるほどのものをこの劇のために使ってしまっているし、劇団員に迷惑をかけてしまっている。

とはいえ、たかが1ヶ月、たかがサークル、たかが学生演劇。
若いなあ、青いなあ、なんていう大人たちの声が想像できてしまうくらいには、僕はまだ嫌なやつなんだけれど。
そんな想像をしつつも、脚本を書いたり舞台を叩いたりしてしまうくらいには、嫌なやつになり切れない。

まだわからない、と言いつつ、公演後も、後悔はないときっと言える。
そう思っています、今のところは。


なので、ぜひ観に来てください。


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劇団綺畸2016年度新人公演

『無題、あるいは歪曲するガラスケースの寓意。』

作 中石海    演出 野口瑞貴

3/18(土) 19:00

19(日) 14:00/19:00

駒場小空間

全席自由席

予約不要・カンパ制

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想稿・銀河鉄道の夜


私が初めてやった劇は、「想稿・銀河鉄道の夜」。当時まだピヨピヨの12歳(公演の時には13歳になった)だった私が当初イメージしていた演劇はよくあるロミジュリだったり白雪姫だったり、要はお姫様とかが出て来て、可愛いメルヘンな衣装を着て、わざとらしくセリフを読むものでした。そういう演劇にミーハー心で憧れて、誰かの言い出しで演劇部を創部したときはまさか演劇がこんなもので、そして大学まで続けることになるなんてことには想像すら至りませんでした。
顧問だった教頭先生のセレクトで銀河鉄道の夜をやることになり台本を読んだ時、なんだこんな地味な。演劇ってもっと派手で楽しそうなものじゃないのか。そんな文句をみんなで言いました。
教頭先生が、大きくなったら中1で銀河鉄道の夜をやったことを絶対に良かったと思うと予言していて、もちろんポワポワの中1だった私(含め当時の部員みんな)は微塵も信じていなかったけど、やはり教師は偉大なものでその通り今は良かったと思っています。

あのときミーハーな憧れと勢いと頭の悪さだけで演劇を始めていなかったら。
例えばオーケストラ部に入っていたら?

そうでなくても、受験で引退したまま、大学に上がってから再び演劇に関わることを選ばなかったら。

時々そんなことに想いを馳せます。
少なくとも今の私は、10代の8割を演劇とともに生きてきて出来た私で、演劇と切り離した自分がどこにいるのかわかりません。
演劇をしています。

舞台監督 小林


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劇団綺畸2016年度新人公演

『無題、あるいは歪曲するガラスケースの寓意。』

作 中石海    演出 野口瑞貴

3/18(土) 19:00

19(日) 14:00/19:00

駒場小空間

全席自由席

予約不要・カンパ制

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えんげき

もともと、声のお芝居の勉強をしていました。そこでお芝居の楽しさを知って、じゃあ、演劇はどんななんだろう、とか、演劇の何かが声のお芝居に役に立つんじゃないか、とか考えて演劇を始めました。とっても軽い気持ちです。
でも、いざ始めてみると、演劇って難しいです。声のお芝居も演劇のお芝居も同じ芝居なんだからそんなに苦労しないだろうってナメた考えが最初はあったんですけど、全然違いますね。不器用なので、声のお芝居は声のお芝居、演劇のお芝居は演劇のお芝居ってなかなか割り切る事が出来なくて、よく悩みます。
演劇って、楽しいと思える瞬間は確かにあるんですけど、苦しむことも多くて、でも今まで散々甘やかされてきた私にとってこんなに苦しいことって初めてだから、苦しいって感じることも含めて楽しいです。


最近よく思うのが、人って結構、動機だとか根拠だとか、無意識に嘘をついてしまうんだなって思います。ていうか、なんだろうな、無意識の行動に自分を納得させる為に後付けで理由を付けて、その理由が最もらしいから自分自身そうだと思い込んでしまう。みたいな。


だからきっと声のお芝居がどうだとか、多分これも後付けの理由に過ぎないんです。気づいたら演劇してました。本当に演劇を始めた理由はもうよく分からないです。

 

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劇団綺畸2016年度新人公演

『無題、あるいは歪曲するガラスケースの寓意。』

作 中石海    演出 野口瑞貴

3/18(土) 19:00

19(日) 14:00/19:00

駒場小空間

全席自由席

予約不要・カンパ制

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さんさいじ


演劇を始めた理由………う~ん、楽しいキャンパスライフを送りたかったからカナ? (´>ω∂`)

幼い頃、大学生になったらなかば自動的にキラキラした華のキャンパスライフを送っていると思っていたけど、あれれ~、寧ろ道を踏み外してしまっている(>_<)

あまりにも無理がありました(辛い)

元々演劇部だったわけでも、観劇趣味があったわけでも無いんですけど、とある芸能人が、舞台は特別。って言ってるのを見て、それが何となく心に残っていた、、、ような気がする

でも、きっとそれだけで演劇を始めたわけではないし、それが無かったら演劇を始めてなかったと言い切れる自信はない

他にも色々偶然が重なって綺畸に入った、と、自分では思ってるけど、どうなんだろう?

わかんな~い (´>ω∂`)

でも、綺畸に入って、先輩や同期と出会えて、演劇を始めて、良かったなと思います

偶然同じタイミングで綺畸に入った人達と、今、同じ方向を見ていることは、果たして偶然なのか?

同期も、実はすごい人いっぱいいるから、なんだかんだワクワクしてしまうo(^o^)o


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劇団綺畸2016年度新人公演

『無題、あるいは歪曲するガラスケースの寓意。』

作 中石海    演出 野口瑞貴

3/18(土) 19:00

19(日) 14:00/19:00

駒場小空間

全席自由席

予約不要・カンパ制

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劇団に恋


惚れっぽいです。あと、帰属意識が強いです。
身の回りの人、もの、すぐに愛着が湧いてしまいます。
逆に仲間意識が強すぎて排他的になりがちなのが、自分の欠点だなって思います。

そんな風に見えないかもしれないですけど。どんな風に見えてるんですかね。
あっ、でも。

「綺畸に恋をしてるんだね」って言われたことがあります。

惚れっぽいです。一旦好きになると、とことん好きになります。割と、溺れるくらい、深く。

だから、ということにさせてほしいです。


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劇団綺畸2016年度新人公演

『無題、あるいは歪曲するガラスケースの寓意。』

作 中石海    演出 野口瑞貴

3/18(土) 19:00

19(日) 14:00/19:00

駒場小空間

全席自由席

予約不要・カンパ制

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「世界」は劇場に収まるか


「世界」は劇場に収まるか。

地下二階の寒々しい演劇練習室に、劇の「世界」は収まるか。
あるいは観客の「世界」は?
あるいは俳優の「世界」は?
日本とアメリカとその他の色んな国を寄せ集めたもの、という意味での「世界」は?

国営劇場の大ホールになら収まるだろうか。
人が千人も入るのであれば、劇の「世界」くらい容易に収まるような気もする。

こんな事を文字にして眺めると、どうしてもアホタレが小難しい事をこねくり回すさまを見せられた感がある。


劇場は狭い。

あらゆる「世界」に比べて余りにも狭い。
舞台に立っている俳優は「世界中の人」の顔を知らない。
では「劇場中の人」の顔は?

俳優は、自分達を見ている観客を、「お客様方」を見ている。
もちろん全員の顔を、じろじろと見ている。

むしろ、劇場で主に見られているのは観客の方だ。

劇場に持ち込まれる前のもの、「演劇」になる前の劇をこねこねこねている間中、劇団は観客をつぶさに観察している。
言葉に、からだに、劇場の空間を分け合う全てのものに、観客は何を投げかけるか。劇団は観客の反応を、というより行動を幾度もシミュレーションする。
「仮想・観客」相手の実験が繰り返される中で、ある時素描された「観客」の像はより鮮明に、より詳細になるよう手直しされていく。

そうした試行錯誤をはらんだ劇が「演劇」に作り変えられていく中で、「仮想・観客」が観客に変わる時、両者を舞台上にいる者達が比較し対照し、産まれつつある「演劇」の正体を見極めようとする時、「仮想・観客」に注がれた視線は、劇場に押し込められた時間・空間と同じだけの密度をもって、そこにいる観客に注ぎ直される。


だからこそ、劇場は狭い。

あちらを見ればさっき見た人、こちらを見れば舞台上で隣に立っている人がさっき見ていた人、ということがありふれた、「狭い世界」がそこにある。

こう考えると、劇場の狭さはそこに「世界」が収まる可能性と矛盾しない。

そして、劇場に収められた「狭い世界」は、劇場の中で容易に産まれ変わる。

言葉一つで、観客と俳優のからだから、「世界」が「産み直され」る。
世界大の質量をもった重たい空間は軽々と転回し、見る間に鮮やかな再誕を繰り返す。


演劇は、まだ始まっていない。


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劇団綺畸2016年度新人公演

『無題、あるいは歪曲するガラスケースの寓意。』

作 中石海    演出 野口瑞貴

3/18(土) 19:00

19(日) 14:00/19:00

駒場小空間

全席自由席

予約不要・カンパ制

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